【連載企画】我が行路④ 「中央大学法学部へ進路」 沢辺瀞壱(元飯能市長)

学生時代の筆者

 岩沢の家から飯一中までは、雨の日も雪の日も自転車で通学した。最初の頃は、家にあったお古だったが、その後、新車を父が買ってくれた。

 自転車通学は、楽しかった。帰りは道草をするのが常だった。町中にあった街頭テレビを見物したり、双柳の友人宅をはしごして遊んだりと、まっすぐ自宅に帰ることはほとんどなかった。

 町中の景観や人々の生活は、農地だらけの岩沢とは大分異なっていた。商店街の人たちは、いい食事をしていた。同じ市内でもこんなに文化が違うのかと驚いたものだった。

 義務教育を終えた私は、高校に進学することになるのだが、私を医師にしたかった父は都内目白にある私立の獨協高校を薦めるようになった。私は川越高校を受験し合格していたので、いまさら獨協高校を受験するのは嫌だったが、言われるままにし、合格した。

 獨協高校に入学したのはいいのだが、国語、社会など文系は良かったものの、理数科の成績はだめ。結局は医者になるのは諦め、親には「できない」と伝えた。

 高校の同級生にTBSアナウンサーの大沢悠里さんがいた。私はドイツ語クラスで、彼は英語クラスだった。そんな関係で私の最初の県議選の時には、飯能まで応援にきてもらったのは懐かしい思い出だ。

 飯能市民会館を会場に、二部制で行った選挙本番に備えての決起大会だった。支援者を収容しきれないため、大ホールと小ホールの二会場で開いたのである。一方の会場で大沢さんに得意の話術で会場を沸かしてもらい、もう一方の会場で決起大会というスタイルで進行した。

 大沢さんは、ここでもエンターテイナーとしての実力を発揮して腹を抱えて大笑いするような変な話ばっかりして、みんなを大いに楽しませた。そして、保守本流の私は選挙戦で難敵の現職を打ち負かした。

 その後、獨協高校の同窓会に出席すると、大沢さんは「まかせとけ。俺がラジオで(名前を)言ってやる」と胸を叩いた。ここにも頼りになる同級生がいた。

 大学の入学では、一浪した。医学部を受けてみたが、とても駄目だろうと思ったら、さらに駄目で、それで浪人して、東京神田の予備校に通い、文系に切り替え、そして昭和35年、中央大学法学部に合格した。当時、中央の法学部というと東大よりも司法試験の合格者が多かった。

 他の人たちは志を持って勉学に励んでいたが、私は法曹界をめざすとか、そんな気持ちはなく、必死になって勉強をするのはもうたくさんだった。かといって、賭けごとが好きではなかったので、友人から麻雀を誘われてもやらなかった。でも、まあ楽しく、ごく普通に学生生活を送った。

 中央大学は、地方からやってくる学生が多かった。そういう人とは、今もお付き合いをさせて頂いているが、つい最近も茨城の常磐炭鉱の方に住んでいる人とゴルフが一緒だった。気がいい連中ばっかりである。

 さて、大学に入学した年は、60年安保闘争(日米安全保障条約に反対する学生や市民、活動家などによるデモ)の真っ最中だった。

 私も何回かデモに参加したことがあった。ある日、 授業が終わって教室にいると、デモへ行こうと盛んに招集をかけてくる。そこで、隣に座っている友人と連れだって出掛けた。その日は、雨が降っていた。友人は下駄を履いていた。ところが、途中で下駄の鼻緒が切れてしまった。私たちは「ああ、これでは行けないなあ」とデモへの参加を諦め、地下鉄の国会議事堂前から電車に乗って引き返した。

 帰ってきたら、デモで学生の樺(かんば)美智子さんが亡くなったというショッキングなニュースがテレビで流れた。そのデモとは私たちが参加しようとしていたデモであった。本当にびっくりした。樺さんというのは東大生で、父親は中央大学経済学部の教授だった。

 その後、私は大多数の学生と同様に、デモに参加することもなく、関わりを持たなかった。つい、先日、元日本赤軍幹部の重信房子が刑期を終え、釈放されたというニュースをテレビでみたが、時の流れを感ずるだけであった。

 大学の授業では、憲法や行政法の分野が好きだったので、川添利幸教授のドイツ公法のゼミを受けた。この分野の勉強は、後に市長に就任したとき、大いに役に立った。

 中央大学には卒業生で組織する「白門会」、そして所沢・飯能を中心に「西武白門会」があり、私は学生時代から参加したが、トップは新井清平さん(中清社長)であった。

 この会は、飯能の冬の風物詩である奥武蔵駅伝競走大会に参加する選手をサポートするのが、主な事業だった。私は車の運転をして選手の送迎などを担当した。また、当時、埼玉一といわれた「東雲亭」で芸者付きで接待したものだから、選手も大喜びであった。随分経費も掛かったと思うが、負担してくれた先輩たちも大変だったと今になって想い起こす次第である。