「平九郎饅頭」令和に復活 観光協会となぐり特産協タッグ

焼印が押された現代版平九郎饅頭

 奥むさし飯能観光協会(古島照夫会長)は、なぐり特産品協議会と協働し、半世紀以上忘れ去られていたという「平九郎饅頭」を復活させた。

 平九郎饅頭は、戊申戦争(慶応4年から明治2年までの旧幕府軍と新政府軍による内戦)の地域戦の一つ、飯能戦争(慶応4年5月23日)で旧幕府軍である振武軍を束ねた渋沢平九郎の死を偲んで作られたのがそもそものきっかけ。

 飯能戦争で能仁寺を本陣としていた振武軍は、食料等を調達するため周辺各地に廻文を出した。その際、賄いの責任者だった島田卯之吉という人物が饅頭を差し入れたという。卯之吉は饅頭屋を営んでいた。

 越生の地で平九郎が自刃したことを知った卯之吉は、死を悼み、平九郎饅頭を作って売り出したが、いつしか饅頭は販売されなくなってしまったという。

 昭和27年になって、4代目の島田重利氏が途絶えていた平九郎饅頭を観光飯能がクローズアップされていることを理由に復活。ところが、やがて島田屋は店を閉め、平九郎饅頭は再び、人々の前から消えた。

 奥むさし飯能観光協会は、城西大学の辻智佐子教授が平成30年に取り組んだ「平九郎饅頭復活プロジェクト」に触発、この饅頭を再び世に出そうと計画を立案。饅頭作りで定評のあるなぐり特産品協議会に製造を打診、試作を繰り返し、念願かない平九郎饅頭を再び復活させた。

 蘇った現代の平九郎饅頭は、卯之助製造の初代饅頭から3代目。大きさは8~9センチほどで、北海道産小豆で製造した餡に、名栗で採れた梅の果肉が練り込んであるのが特徴。

 梅を餡に混ぜたのは、平九郎自刃の地が、梅の一大産地である越生に由来した。

 4代めの重利氏が復活させた平九郎饅頭は、奥むさし飯能観光協会によると、当時の饅頭を食べた人の話として、色は白色で、一口サイズ。「平九郎」の焼印が押してあったという。

 令和版「平九郎饅頭」の値段は3個入り300円。ただ、店頭販売はしておらず、購入できるのは観光協会のイベント時に限定。

 そのため、新型コロナウイルスの感染拡大で各種行事が中止されていることから、製品化されて以降、饅頭は一般市民の前には登場していない。

 なぐり特産品協議会は、大勢の市民に平九郎饅頭を食べてほしいことから、10パック以上の注文があれば製造するという。

 卯之吉が平九郎饅頭を製造した理由などについて、昭和27年3月15日発行の文化新聞は、次のように報じている(一部不明)。

 「当時飯能まち二丁目の島田卯之吉とゆう菓子屋さんは能仁じ本堂に出入り、振武軍御用賄組頭を仰せつかり、まんぢゆう、モチなどの副食を供していたが、若い平九郎はまんぢゆう好きで、「卯之さん」と呼んで殊の外卯之吉を愛しており、二十三日朝はすでに期するとこがあつたものか卯之吉を呼んで形見として陣笠を與えた。卯之吉は痛く感激した」。

 復活した平九郎饅頭についての問い合わせは、市農林産物加工直売所やませみ(飯能市下名栗)内なぐり特産品協議会(979・0010)へ。午前10時~午後5時。不定休。