北平沢地区の草分け 小久保家末裔と面会

小久保家の墓所で記念碑を囲む入江さん(左)と小久保さん

 郷土史研究を趣味とする日高市北平沢在住の入江武男さん(69)は、自身の住む北平沢周辺のルーツを調べており、このほど、平沢を開拓した源氏の武士団だったとされる小久保景勇(勘解由)の末裔で神奈川県鎌倉市に住む小久保一利さん(80)と面会し、北平沢地内の小久保家の墓所を訪ね地域の歴史を語り合った。

 入江さんの調べによると、「平沢の歴史は、11世紀後半に秩父から高麗に出てきた秩父平氏が新しい開墾地としてこの地に住み、渡来系高麗氏一族とは別に平姓高麗氏を名乗ったことに始まった。その後、源氏の武士団が進出して開墾を始めた」という。

 入江さんは北平沢の歴史を調べる中で、日高市史通史編に記された「秩父平氏と高麗郡進出」「平姓高麗氏と平沢郷」「秩父平氏と大蔵の戦い」の項に着目。

 そこには、秩父平氏を出自とする武家の高麗氏が高麗を領有し、渡来系の高麗氏とは別に平姓高麗氏を名乗ったとあり、「平姓高麗氏の居館については史料も伝承もない。高麗武家の存在についても知られていない。若光を祖とする渡来系高麗氏の存在があまりにも有名で、その陰にかくれた感じである」と記されていた。

 さらに「しかし、この事が実は重要なことのように思える。つまり秩父平氏武家は渡来系高麗一族とその文化とに融和しつつ開拓を進めたためと考えられるからである。渡来系高麗氏一族の生活舞台は高麗本郷・新堀あたりで、高麗川低地とゆるやかな丘陵傾斜地が利用されたであろうと推定されている。平姓高麗氏はその下流域に広がる未開地に着目したのであろう。高麗神社の裏山が急斜面をなして高麗川に接しているところは交通を遮断している。ここが生活舞台の境界となったであろう」と。

 そして、その後源氏が台頭し、1155年に秩父氏の家督争いに源氏内部の同族争いが結びついた「大蔵の戦い」以降、源氏の武士団が平沢に進出して開墾を始めたことなどがまとめられていた。

 入江さんはこの内容を踏まえ、平沢村に明治の中頃まであり「鳥ケ谷戸大臣」の屋号で知られた小久保家の先祖について調べ、「平沢を開墾した源氏の武士団は小久保家の祖となる小久保影勇(勘解由)を指しているのでは」と推察。

 享保14年(1729年)にまとめられた「武州高麗郡平沢村鏡覚」や小久保家末裔の一利さんが平成5年にまとめた「小久保家の歴史」などの資料を手掛かりに、建久4年(1193年)に没した小久保家初代の景勇が中心となって現在の地域の礎を築いたのではないかとしている。

 入江さんと面会した小久保家末裔の一利さんは、初代景勇の没年は把握しているものの、以降400年の系図については掌握できていないとして、平沢村鏡覚に残されていた村の草分けとなる約70軒の屋敷や系図を頼りに、小久保家5代までの名や家紋などについて入江さんから助言を受けた。

 一利さんによると、鳥ケ谷戸大臣の屋号で知られた小久保家は明治期に平沢村を離れ、都内へ居を移し、現在は鎌倉に在住。本籍地は変えずに日高市に残し、年に3回、墓所を訪ねているという。

 先祖の歴史に深い関心を持つ一利さんは、景勇没後800年の平成5年には、先祖の歴史を調べ冊子にまとめるとともに、墓所には小久保家創設800年記念碑を建立。入江さんと面会し「先祖のことも誰かが調べて残しておかないと、分からなくなってしまう。冊子をまとめてから随分経つが、入江さんのご協力で新たな発見があり、大変ありがたい」と感謝を述べた。

 一利さんと共に墓所を訪ねた入江さんは「地域の歴史は謎に包まれていることがたくさんある。小久保家の歴史は平沢の歴史にも大きな関わりがあり、今後の研究を進める上で貴重なお話を伺うことができた」と話している。