高麗郡の役所「郡家」高萩地区に? 出土品に「厨」の文字

赤外線写真により「厨」の文字が確認された墨書土器

 霊亀2年(716年)5月16日に日高市、飯能市を中心に高麗郡が設置されてから今年で1300年。建郡記念日がいよいよ近づく中、高麗郡の役所にあたる「郡家(ぐうけ)」の所在地が明らかになりつつある。

 郡家の関連施設があったと推定されるのは、日高市高萩の武蔵高萩駅の北側、小畔川左岸に存在する拾石(じゅっこく)遺跡で、同遺跡から出土した墨書(ぼくしょ)土器から郡司の食事を作る施設を示す「厨(くりや)」の文字が確認されたことから、日高市教育委員会は「郡家の位置を特定する大きな手掛かりを得た」としている。

 「厨」の文字が刻まれた墨書土器は、高麗郡建郡の時代とほぼ一致する奈良・平安時代の8世紀中葉の須恵器の坏(つき)で、直径13センチ、高さ3・5センチ。窯を用いて高温で焼かれた青灰色が特色。「厨」の文字には郡家を形成する主な施設の一つにあたる、郡司の食事や宴会の料理を作る調理場との意味がある。

 土器のあった拾石遺跡は、武蔵高萩駅北土地区画整理事業に伴い、市教委が平成6年度から発掘調査を行っており、この土器は平成7年度の調査で出土したもの。肉眼では文字の判明は困難だが、高麗郡建郡1300年に向けて昨年実施した特別整理作業の際に赤外線カメラで撮影したところ、厨の文字を確認した。

 同遺跡ではこれまで43軒の住居跡や16基の井戸、2つの水路などが確認され、出土品では「乃」「土」「東」「万」「田」「家長」といった100点を超える墨書土器が見つかっており、役人が書いたと見られるこれらの文字は土地や方位、建物に関する内容を意味していると見られる。

 厨の文字が刻まれた土器は縁が一部欠けており、水路の跡から出土しているため、文化財担当職員は「不要になって水路に捨てられたのでは」と推察している。

 過去の調査ではこのほかにも、役人が身に着けた銅や石で作られたベルトの装身具として、青銅製と石製の丸鞆(まるとも)、巡方(じゅんぽう)が出土。丸鞆は半円形、巡方は正方形で、材質によって役人の位を表していた。

 また、箸置きとして用いられた耳皿、役所で不要となった文書を漆容器の蓋紙に使用したため漆が付着した漆紙なども見つかっている。

 さらに高萩地区では、郡家に関連する資料として、拾石遺跡の西に位置する王神遺跡から鳥形硯片が見つかっている。鳥形硯は平城京近隣での出土が主で、関東では日高市と武蔵国の役所があった府中市で出土する程度で珍しいもの。中央との深い結びつきが窺えるとしている。

 また、武蔵高萩駅近くの女影廃寺からは、周縁部に面違鋸歯文(めんたがいきょしもん)をめぐらせた軒丸瓦が出土。これは、670年頃に天皇家が初めて造営した奈良の川原寺の瓦をモデルにしたもので、郡家に付属する寺院とされている。

 今回の発見により、文化財担当職員は「これまでの資料から郡家が拾石遺跡の周辺に存在していた可能性が高いとされていたが、その位置がより絞られてきた」としている。

 高麗郡は、大和朝廷が関東7か国に居住していた高麗人1799人を日高市周辺の地域に移住させて設置したもの。

 高麗郡建郡の理由について、有識者が執筆し高麗浪漫学会が編集した「高麗郡入門」では、中央集権国家を目指して郡などの地方行政機構の整備に力を注いでいた朝廷が、在地豪族や先住民といった既存勢力が不在の地に関東諸国の高麗人を集め、開拓を進めるとともに地方行政機構のモデルを示したと推察している。

 市教委は高麗郡に関する出土品を5月20日から6月12日まで、ひだかアリーナのギャラリーに展示する予定。