中里渼子さん、106歳で逝去 飯能の婦人会活動の礎築く

100歳を迎えた平成27年9月、大久保市長(右端)や中里社長夫妻(左)とともに安倍晋三総理からの祝状を手にする渼子さん

 飯能市川寺の株式会社マルナカ・中里昌平社長の母で、飯能市連合婦人会長を長年務め、同市くらしの会、同市母子愛育会を立ち上げるなど多方面で活躍した中里渼子(なみこ)さんが1月21日、106歳で逝去し、2月1日に近親者で密葬が営まれた。

 3月13日には観音寺(山手町)で本葬が執り行われる。

 渼子さんは所沢市出身。23歳で飯能を代表する老舗織物メーカー・マルナカの3代目社長を務めた進氏と結婚し、織物産業が盛んだった戦後の復興期に会社発展のため奔走。

 寮生活を送っていた女性社員を対象に青年学級を開き、外部から講師を招き料理や裁縫、生け花などを教えた。

 女性の地位向上のため、昭和37年4月から同51年5月まで14年間にわたり、飯能市連合婦人会長、埼玉県連合婦人会常任理事を務め、学習会やさまざまな行事に熱心に取り組みんだ。

 昭和40年には市民の消費生活の向上を目指した飯能市くらしの会、同43年には母子の健康や子育て環境の充実を目的とした同市母子愛育会を立ち上げ、いずれも会長として長年活躍、埼玉県母子愛育会会長も務めた。

 このほか、飯能市の社会教育委員、新市建設審議副委員長、中央公民館運営委員、国保運営協議会副委員長、都市計画審議会委員、公害対策審議会委員、特別報酬審議会委員。

 さらにスポーツ振興審議会委員、環境浄化委員会委員、図書館協議会委員、市民憲章推進協議会委員、埼玉県飯能保健所運営協議会委員など数々の役職を歴任、幅広い分野で市の発展に貢献した。

 日中の国交が回復して間もない昭和52年には、日中友好婦人代表団派遣団員として中国を訪問し親善に努めた経験も。

 こうした功績により、昭和49年に大蔵大臣賞、同51年・56年に紺綬褒章、同52年に母子愛育会全国表彰、埼玉県シラコバト賞、同53年に労働大臣表彰、同54年に母子愛育会高松宮表彰、埼玉県知事表彰(公衆衛生)を受賞、平成10年には宝冠章を受章するなど、多数の表彰を受けた。

 行動力にあふれ、多くの人に慕われた母について、中里社長は「婦人会では県の常任理事、母子愛育会では県の会長までさせて頂いた。全国各地に友人ができ、いつもあちこち飛び回っていた」と回顧。

 100歳を過ぎてからも毎朝、新聞各紙を隅々まで読み、重要な記事にペンで印を付けて中里社長に手渡すのが日課だったという。

 毎年の年賀状に短歌をしたため、90代では「いましばし日本の変容見てこよと亡き夫(つま)言いしか卒寿越ゆ」、100歳を迎えた年には「生きる日を大切にせん残生を尊き親の賜りものなれば」と詠んだ。中里社長は「多くの方に支えられ、おかげさまで天寿を全うすることができました」と感謝する。

 3月13日の本葬では、沢辺瀞壱氏が葬儀委員長、新井景三氏、矢島巖氏が副委員長を務める。