昭和45年、義母多美子の妹の子である冨田早苗と結婚

昭和45年、義母多美子の妹の子である冨田早苗と結婚

 医務課に同期で入った森村和男君が、小説家森村誠一さんの実弟であることは前述した。何かの時に「俺の兄貴は小説を書いているんだ」などと教えてくれたのだが、ある日、まだ森村誠一さんが勤務しているホテルニューオオタニのレストランへ和男君と連れだって出掛けたことがあった。

 森村誠一さんが勤務していたのは、食事をしているとぐるっと回転する展望レストラン。会えるかなと期待していたのだが、結局、会えずじまい。残念だなあなんて言いながら、2人でコーヒーだけ飲んで帰った思い出がある。

 同期入庁者は100人以上いたが、部・課を超えてよく付き合った。同期の中で、6人が部長にまで登り詰めたが、私はそういう人たちとも仲が良かったので、私が埼玉県議会議員選挙に立候補して当選した以降、いろいろと助けてくれた。

 飯能県土整備事務所には、必ずといっていいほど同期の中の誰かがいたし、林業事務所にもそういう仲間が在籍していた。

 県議時代、いろいろと頼んだものだ。「俺だって、一生懸命やって、やっと当選したんだ。何もやらないでいると次の選挙で落選してしまう。だから、頼むよ」と。そうすると、みんな「わかった。わかった」と部下に指示をするなどして、事務の進捗を図ってくれた。

 例を上げれば、飯能駅北口駅前通りの電線地中化、国道299号バイパス整備、一丁目クラブへのエレベーター設置事業などについては、助け舟を出してもらって完成した。

 さて、昭和35年「これからは自動車の時代だ」と、父親が教習所を始めた。自宅前に畑や栗山なんかの1町2反(3600坪)の土地があったので、そこに開所した。

 当時、自動車学校は少なかった。地面は舗装されておらず、砂利のまま。そこに車を2台置き、コースをぐるぐる回って運転の仕方を教えた。授業料として現金が入るものだから、父は「キュウリを作るより、ずっと割がいい」なんて言っていた。

 その後、道路交通法の改正によって、公認の教習所制度が創設。父は基準を満たすようコース整備に取り組んだ。校舎については、廃校になった南高麗小学校の分校(岩渕にあった)を買い取り、移築した。建物は昭和46年に火災を起こして焼失したが、門柱だけは今もコースの出入り口に残っている。

整備を終えて、公認申請を行い、昭和37年2月に県公安委員会指定教習所として正式に開所した。公認教習所は県内9番目であった。

 当初、経営は楽ではなかったが、公認の取得、さらには自動車の普及によって生徒が徐々にやってくるようになり、経営も安定、業績も伸びた。そんな折、父が交通事故に遭い、それまでの気力が萎えてしまったのか、私に県庁を辞めて学校を継いでほしいと訴えるようになったのである。

 ありのままに述べると、私は県庁を辞めたくなかった。しかし、今後の生活のことを考えると、県庁の給料では不安だった。結婚しても家庭は持てないだろうと悲観したほどだ。そんなに贅沢をしているわけでもないのに私は県庁勤めをしながら、親に小使いを貰っていたのである。

 家業を継ぐため、家に戻ったのだが、自動車学校の制度そのものが未整備だったことに驚いた。指導員も特に専門教育を受けてきたわけでもなく、運転免許を所有していれば、採用していたのである。

 当時は教え方のひな型もなかったので、指導員は自己流、軍隊調がめだった。各々頑張っているのは分かっていたが、接客に問題が多く、改善の必要性を強く感じた。

 私は経営のほとんどを父からまかされていたので、「これではいけない」と教習所運営に一生懸命に取り組んだ。県庁で学んだことを生かし、問題点を洗い出し、さらに他の教習所経営者とも連携して解決に向けて突き進んだ。自ら指導員、学科指導員、検定委員の資格も取得した。公安委員会へ出向いて交渉ごとをすることもあった。

 教壇に立って学科指導もしたが、1時間も授業をすると、喉が痛くなる。でも、しゃべっているうちにだんだん喉が強くなってきて、扁桃腺持ちだったが、気がついたらそれもいつのまにか治ってしまった。

 声を出し続けた当時の学科の授業が、その後の選挙時などの演説の際の声量にも良い結果をもたらしたと思っている。

 昭和48年、誘われて飯能青年会議所創立のチャーターメンバーに加わった。この時、33歳。皆、青年会議所の活動プログラムの作成を始め、組織の骨格作りに一生懸命で、毎晩のように議論を重ねた。

 メンバーのほとんどは、諸々の企業、商店、工場などの二代目であった。

 仕事を終え、夜になると会合に出掛けるものだから、私も含め幼い子どもを抱えるメンバーは妻や家族から随分と小言を言われた。心苦しかったが、青年会議所の創立メンバーでもあるので、その頃の熱量は皆、かなりのものがあった。

 37歳で私は青年会議所の第5代目理事長に選出された。参考までに、初代理事長は細田吉春さん、2代目が木川幸治さん、3代目が小室舜一さん、4代目が神田康夫さんという錚々たる方々。代々の先輩理事長さんからの教えは的確で勉強になったが、残念ながら木川さん、小室さん、神田さんのお三方は鬼籍に入ってしまった。

 私が理事長として、市民参加のまちづくりの考え方などを学んでいた当時、上部団体である日本青年会議所の会頭は、麻生太郎さんであった。私と麻生さんとは同い年だった。

 全国大会などに出席すると、麻生さんが胸を張って話をしている。豪放磊落のあの人の話はべらんめえ調であり、核心を突いているので本当に面白かった。皆、身を乗り出して聞いたものである。