【連載企画】我が行路③ 「〝根回し〟の学級委員」 沢辺瀞壱(元飯能市長)

 飯能町立加治小学校に入学したその年に、新しい母である多美子が川島町の小高家からやってきた。

 多美子が沢辺家に後妻として嫁いだ経緯はこうだ。川越中学時代の父に仲の良い同級生がいた。父が同級生に「妻がいなくなって弱った」とこぼすと、「じゃあ、俺の妹がいるぞ」と紹介してくれたのだ。

 母多美子は、継母だが実にオープンな性格の人で、元気が良かった。体が丈夫で、農作業も泥まみれになって励んだ。苦境を乗り越える沢辺家を、心身両面で支えてくれた。

 そして昭和23年に妹葉子、25年には弟の秀二が生まれ、先妻の満さの子である姉蝶子、私とで4人兄弟となった。

 特別なべたべた感はなかったが、多美子は私にとってもいい母親だった。大局的な見地に立って、アドバイスもしてくれた。遠山元一(川島町出身の実業家。日興証券創業者)の話もしてくれた。PTAの会合にも積極的に顔を出し、いろいろと発言をしていたようだ。もちろん、私の選挙も骨身を惜しまず、応援してくれた。

 多美子は保護司としても活躍し、勲五等瑞宝章を受章する栄も受けたが、平成8年4月、78歳で他界した。本当に感謝しきれない。私の妻、早苗は多美子の妹の子である。

 加治小学校の卒業式で、総代として卒業証書を受け取った私は、昭和28年、飯能町立第一中学校へ入学した。

 当時の一中は、1学年に600人を超える生徒がいる大規模校。その後の一中は、さらに生徒数が増加し、昭和37年には3学年で2000人を超え、42学級になるなどさらに県下有数のマンモス校に成長するわけだが、入学したての頃の私は生徒数の多さに驚き、たじろいだ。でも、みんなお互いに好奇心があるから、意識することなく自然に友だちはできた。

 入学式では、なぜだか新入学生を代表して私が挨拶をしたのだが(暫くして、新入生代表の挨拶は各小学校の持ち回りと聞いた。ちょうど、私の時が加治小の当番だった)、もっと分からなかったのは、1年生から3年間、学級委員を任されたことだ。クラス替えしてもまた学級委員。どうして自分が選任されるのかと理解に苦しんだが、先生から「やれ」と言われたので、仕方なくやった。

 1年生のときは、腕っ節の強い者がいて、二小からきた安藤(後のホッケー選手)、精明小出身の梶田、小川などはスポーツが凄かった。みんな威張っていて、下手をするとこっちがやられちゃう。が、学級委員としてクラスを一つにまとめなければならず、どうしたらいいものかと悩んだ。

 困っていると、先生がこうやりなさいと手を差し伸べてくれたりした。こんなやり方をしたこともあった。予定されていた学校行事があった。こちらはトラブルなく円滑に進めたいわけだから、クラス内の威張っている生徒のところを回って「こんな行事があるようだけど、その時は頼むよ」などと情報を流しつつ、協力を要請する。

 まあ、事前に根回しをするわけである。このやり方は結構うまくいって、調子に乗った私は、「今度、家に遊びに来ないかい」などと手法を変えて、ブレーンの輪を構築していった。

 今から考えると、まさに政治的であった。もしかすると、私の政治家への道は中学時代がスタートかもしれない(笑)。当時の同級生たちは、その後の私の選挙戦で応援してくれた。有難いことである。私は、市議選、県議選、市長選挙へと出馬することになるのだが、同級生たちの支援は心強かった。