【連載企画】我が行路① 「校長先生の子ども」 沢辺瀞壱(元飯能市長)

姉蝶子と私

 平成25年8月7日。私は、3期12年間、市長として在任した飯能市役所を後にした。最後の執務をやり終え、庁舎1階の玄関を出ると、「ああ、終わったな」と、寂しさが込み上げたが、一方で激務から解放されるという清々しさもあった。見送りの職員に頭を下げ、私は送迎の車に乗り込んだ。

 負け惜しみで言うわけではないが、選挙戦で敗れた無念さなどは微塵も感じなかった。「明日からは、違う日がやってくる」。背負った荷物を下ろしたような、体がすっと軽くなった。

 昭和15年4月。私は韓国の巨文島(コムンド。朝鮮半島の南部沿岸にある島)で生まれ、そこで2歳まで過ごした。父浩が巨文島の新設小学校の校長に赴任したからで、その頃の思い出を話そうにも、残念ながら記憶はほとんどない。

 ところで、沢辺家は旧加治村の資産家だった。江戸末期から明治にかけて、農村に経済変動が起きた。お金が必要になったが、銀行もない。だから、ある程度、(沢辺家のように)小金を持っていた家を中心にして、人々が借金にきた。沢辺家は、そのような形で蓄財していったのだと思う。

 畑はどのくらいあったのか定かでないが、広大な土地を所有していた。機織りの工場もあった。今の自宅が建つところに屋敷があり、現在の飯能自動車学校はもちろん、その東側の市営住宅付近なども所有地で、またその先にも土地があったようだ。

 しかし、戦後、農地開放により、沢辺家に残っていたのは上限の農地だけだった。父はもう、これ以上、取られては大変だと百姓になって、農地を懸命に耕した。父は農業の経験がなかったから、難儀したようだ。

 さて、父は教員をしていたが、長男だったので沢辺家の跡取りであった。旧東吾野村村長などを務めた大野家の長女満(ま)さを妻に迎えたが、母は沢辺家の仕事などで随分と骨を折ったようで、その様子を見かねた父は思いきった挙に出た。弟俊次に家を任せ、なんと一家で朝鮮半島へ渡ってしまったのだ。そして、私が生まれた。

 最初は、港町の麗水(ヨス)、次に巨文島という離島に父は赴任し、現地の子どもたちに勉学を教えた。巨文島は半島と済州島の中間に位置する孤島だったが、漁業に適していたので、鄙びてはいたが、かなり繁栄していた。

 巨文島は、西島、東島、そしてこの二つの島に挟まれた古島の三つの主要な島からなる。島に囲まれた内側は波が立たず穏やか。そんな場所は瀞(トロ)と呼ばれる。瀞壱の名の「瀞」の由来は、巨文島の穏やかなトロのような海であると、父から聞いたことがある。

 2歳の時、10歳年上の姉蝶子が光州の女学校に入学することになり、今度は光州へ転居した。まだ、学校入学前だったが、その頃の私は朝鮮語が話せた。学校近くの子どもたちと一緒になって遊んでいるうちに、自然と身に付けてしまったのだ。

 どのような遊びをしたのかはっきりと覚えていないが、長屋みたいなところを、地元の子どもたちと駆け回ったり、勝手に他人の家に入り込んだりして遊んだ記憶はある。校長先生の子どもということで、周囲は私を大事にしてくれた。

 当時の風景については、描写できるほど鮮明だ。山があって、その前に田んぼがあって、小高い地形の裾野を川が流れていた。川では、村の人たちが衣服を棒で叩いて洗濯していた。道路と線路の間に家があり、光州から到着した汽車をよく眺めたものだ。ある時、家で飼っていた犬が死んだので、家族で山に埋めにいったこともあった。

 そういえば、こんな出来事にも遭遇した。葬式があり、列の中で異様なくらいオイオイ泣いている人たちがいる。ところが、あんなに悲しんでいた人が列が到着すると、ピタッと泣き止んだのだ。子ども心に不思議だった。後で知ったのだが、泣いていたのは「泣き屋」と呼ばれる商売の人たちで、裕福な家庭などが葬儀を出す際は、権威を示すため、賃金を払って何人も雇ったのだという。

 昭和20年8月15日。日本は終戦を迎えた。

 食事にも困らず、野山を駆け回り、周囲から寵愛を受け、不自由なく過ごしていた時代。この日を境にがらりと変わることを、私は知る由も無かった。