地域の歴史を後世へ 再建された金毘羅大権現碑

再建された石碑を前に拝礼する出席者

 度重なる震災で倒壊し、地域住民の手によって再建された日高市高萩地内の「金毘羅大権現碑」の魂入式がこのほど行われた。石碑は国道407号の旧道沿い、かつての宿場町に侠客の清水喜右衛門こと「高萩の万次郎」(1805~1885年)が願主となり慶応2年(1866年)に建立。その後、大正12年(1923年)の関東大震災、平成16年の新潟中越地震、同23年の東日本大震災の影響を受け倒壊しそのままとなっていたが、住民有志で立ち上げた「金毘羅大権現碑等再建並びに整備委員会」(関孝夫委員長)が地域の協力を仰いで再建した。

 碑は関東大震災で中ほどから欠け落ち修復されたが、79年後の新潟中越地震で修復部が再び欠け、さらには東日本大震災で下半分も根元から折れた。昨年秋、住民有志が再建に向け動き出し、委員会を立ち上げ地域住民に寄付を募ったところ、約半年間で目標額を上回る寄付が寄せられ、再建工事が行われた。

 碑や外柵の新調、石尊大権現御神燈の改修に加え、高萩宿の歴史解説板解説板が設置され、新たな碑には当時の碑に刻まれた「異体字」を採った拓本を使って再現した。

 新たに設置された解説板には、高萩を南北に貫く道は江戸時代、八王子千人同心が日光の火の番を交代で務めるため八王子から日光へ向かう「日光千人同心街道」として利用され、高萩宿は八王子から6番目の宿場として、人馬を交代して荷物を運ぶための継立(つぎたて)の役割を担っていたことや、石碑を建立した清水喜右衛門こと高萩の万次郎は、「鶴屋」を屋号とする十手持ちで、高萩宿の宿役人の年寄を務め、侠客としても有名で近隣の侠客から一目置かれ、清水次郎長とも親交があったことなどが記されている。

 魂入式には委員会のメンバーなどが出席し、神職が石碑を払い清め、玉串奉奠などを行った。石碑建立地のすぐ隣に住む青木俊夫さん(82)は、「倒れた石碑を見に来て、この石碑はどのようなものなのかと尋ねてくる人もいた。長年の念願が叶って立派に再建され、歴史が分かる解説板もつき、後世に残るものになった」と喜んでいる。