上鹿山の現場に立つ慰霊塔。事故当日が近づくと各地から遺族が訪れる

上鹿山の現場に立つ慰霊塔。事故当日が近づくと各地から遺族が訪れる

 昭和22年(1947年)2月25日に東飯能~高麗川駅間の日高市上鹿山地内で起きた八高線脱線転覆事故から70年を迎えようとしている。

 終戦直後の食糧難の時代、超満員の買い出し客を乗せて東飯能駅を出発した列車は、高麗川駅手前約1キロの鹿山峠の急カーブを曲がり切れず脱線、6両編成のうち3両が5メートル下の桑畑に転落した。

 死者は184人(188人との記述も)、重軽傷者は570人。この事故は鉄道史上最大規模の惨事として人々の記憶に刻まれ、上鹿山地内の事故現場にある慰霊塔には、今も遺族や地元の人々の手によって花が供えられている。

 事故が起きたのは昭和22年2月25日午前7時50分。

 八王子発高崎行き、蒸気機関車(C57)に連結された列車が定員の3倍もの乗客を乗せて東飯能駅を出発し、鹿山峠を越え高麗川駅南側約1キロの急坂カーブにさしかかった時、6両編成のうち2、3両目の連結器が外れ後部の客車4両が脱線、うち後方3両が高さ5メートル下の桑畑に転落した。

 現場は下り坂の急カーブ。事故原因については、速度制限が時速55キロ以下とされていたが、超満員となり出発時刻に遅れが生じたため、速度を超えてカーブに進入、急ブレーキをかけたため、連結器が外れて客車が脱線したと言われている。

 事故現場の近くに住み、事故を風化させてはいけないと、当時の資料や写真の収集、遺族からの聞き取りなどを続けている鉄道チャレンジ平和資料会の清野浩志さん(65)=中鹿山=は、「八高線事故は戦争を生き抜いた人々を襲った悲惨な鉄道事故。車両の整備不良や未熟な運転が要因とされ、その後の人々の証言でも不慮の事故というより人為的要因もあったと見られる。戦後の混乱期という言葉だけでは片づけられないものを感じている」と語る。

 列車は食料を求める買い出し客など定員の3倍を超える乗客であふれ、連結器やデッキも鈴なりの状態。脱線転覆によって乗客たちは外に放り出されたり、車内で押しつぶされたりと凄惨な状態となった。

 当時を知る地元住民の話では、「朝、学校へ行こうと思ったら、キーキーという金属音が鳴り響き、次にドカーンと地響きがして土煙が上がった。何が起きたのかと土手に登ったら、下の畑に客車が落ちていた。線路にはタバコのゴールデンバットの箱が散乱していて、その所有者らしき遺体が転がっていた。土手の下にはいくつもの遺体が横たわっていた」。

 事故後、上鹿山の現場には木製の慰霊碑が建てられたが、老朽化に伴い、三十三回忌を迎えた昭和54年、全国の遺族によって石造りの慰霊塔が建立された。今も事故のあった2月25日が近づくと、各地から慰霊塔を訪ねる遺族が後を絶たない。

 現地を取材中、八王子市に住む村田昌子さん(72)が弟妹とともに慰霊塔を訪れ、線香と花を供えた。2歳の時、倉賀野の親戚宅へ向かっていた母と姉をこの事故で失ったという。

 村田さんは「幼かったので当時の記憶はありません。後になって事故の詳しい話を聞いた。母と姉が亡くなった場所。毎年欠かさず足を運んでいます」と静かに手を合わせた。

 慰霊塔の建立時、地元の遺族の1人として尽力した飯能市八幡町の町田多加次さん(83)は、事故で父(当時49歳)を失った。糸を扱う商売をしていた父は組合の集まりで熊谷へ向かう途中だった。

 当時14歳で旧制川越中学へ通っていた町田さんは、事故から半日以上が過ぎた夕方、帰宅途中の所沢駅で駅員から父の死を知らされたという。

 「隣組の人たちがリヤカーで遺体を自宅に運んでくれた。私が帰宅した時には、全身を包帯で覆われ無言で横たわる、変わり果てた父の姿があった」。

 父を失ってからは母が商売を切り盛りし、町田さんは高校卒業後、当然のように家業を継いだ。

 「我が家は7人兄弟。残された者たちで生き抜くのに精一杯だった。父のことをゆっくりと思い出すゆとりもなかった」。だが、川越中学に合格した時に我が事のように喜んでくれた父の姿は、今も目に焼き付いているという。