詩人・蔵原伸二郎の資料展示へ 町田多加次さんの寄贈資料

藏原の詩業や、弟子としての関わりをまとめた自著『蔵原伸二郎と飯能』を手にする町田さん
蔵原の詩業や、弟子としての関わりをまとめた自著『蔵原伸二郎と飯能』を手にする町田さん

 全国的に知られ、戦後飯能で活躍し、昭和40年読売文学賞を受賞した詩人・蔵原伸二郎(1898年~1965年)の出版物、原稿、写真などの関係資料約250点が、同市山手町の同市立図書館に寄贈され、3月の展示コーナーオープンに向け、現在資料の整理が進められている。関係資料を寄贈したのは、詩人で蔵原研究の第一人者として知られる同市八幡町の町田多加次さん(83)。

 町田さんは、「戦前作の詩は、全国的に知られているが、それに比べると戦後飯能での詩業はあまり知られていません。飯能の豊かな風物が、彼の詩の母体になっています。市内にすごい詩人がいたことを知ってほしい」という思いから、平成27年の暮れに寄贈。自ら主宰していた文芸誌『高麗峠』の運営費の残金13万円も、「資料整理に役立ててくれれば」と考え寄付している。

 詩人・蔵原は、熊本県出身。慶応義塾大学在学中、萩原朔太郎作の詩集『青猫』に大きな影響を受け、詩作を始め、第一詩集『東洋の満月』を発表、高い評価を得た。

 戦争中、吾野村(現・飯能市吾野)に疎開。戦後、同じ阿蘇出身で骨董好きだった飯能市民と意気投合したことがきっかけで、現在の飯能市街に転居している。

 町田さんは、昭和8年飯能生まれ。飯能高校1年生のとき詩作を始めた。当時の飯能高校の校長の紹介で、蔵原のところに指導を求めて出入りするようになったのが、蔵原と町田さんの子弟関係の始まり。

 昭和39年、町田さんは蔵原の詩集刊行を企画。当初、町田さんは自主出版するつもりだったが、計画話が瞬く間に広がり、蔵原詩集刊行会が立ち上がった。

 蔵原の住まいは、当時飯能文壇の中心のようになっていて、詩ばかりでなく、短歌や俳句をたしなむ人も蔵原の周りに集まっていた。また詩は分からなくても、蔵原の人柄にひかれて協力してくれた人が大勢いたという。

 同年6月、町田さんは、詩誌『陽炎』を出版していた、自宅内の『詩誌陽炎発行所』から、1000部限定で詩集『岩魚』を刊行した。

 「すごい詩人」と蔵原に心酔していた町田さんは、文学賞に値すると確信。読売文学賞の選考委員を調べ上げ、全員に贈呈の形で『岩魚』を郵送した。

 町田さんの活動が実り、翌年2月、読売文学賞の授賞式が行われたが、闘病中だった蔵原は出席できなかった。

 蔵原は、その直前病に倒れ、受賞決定も病床で耳にし、受賞式の日に危篤。翌3月永眠した。

 町田さんは、授賞式の御礼の言葉や、絶筆となった最後の詩も、蔵原の病床の枕元で口述筆記するなど、最後まで蔵原を支え続けた。

 広島県出身で、作品が楽曲化されることも多い詩人の黒田三郎は、「『岩魚』巻頭の『狐』6編で、蔵原の作品は十分である」と激賞し断言するほど、「岩魚」は蔵原の代表作として評判が良かったという。

 「蔵原は、動物好きで動物がたくさん登場する作品も多いが、狐6編は蔵原が自然豊かな飯能に住んだからこそ、触発され紡ぎ出された作品。飯能という土地を愛していました。また、彼は多くの市民に人柄を愛され、支えられました。藏原を知ることは、詩を中心に飯能文壇の源流を知ること。また、骨董好きだったことから市の文化財保護にも力を尽くし、文化財保護の歴史を知ることにもなります」と、蔵原研究の意義を語る。

 「蔵原は、幸せな人だったと思います。多くの人に慕われ、文学賞受賞を知ってから旅立ちました。すごく喜んでいたでしょう。私が詩集刊行を持ち掛けたタイミングもよかったと思います」。

 臨終までに吉報を届けることができ、町田さんは、「今では俺もいいことをしたな」と、しみじみ振り返っている。