多数の来場者が講話に耳を傾けた

多数の来場者が講話に耳を傾けた

 江戸末期に上名栗村を中心に発生した「武州世直し一揆」から今年で150年を迎え、飯能市上名栗の正覚寺(石井早苗住職)で「あれから150年“武州世直し一揆を偲ぶ会”」と題して慰霊法要や講話が行われた。

 米価の高騰などを受けて巻き起こった一揆の発端を開いたのは、正覚寺の檀信徒たち。食糧難に苦しみ立ち上がった当時の人々の姿を知り、現代の暮らしを見つめ直そうと、飯能・日高近隣から100人を超える人々が訪れ、石井住職らの講話に耳を傾けた。

 武州一揆が勃発したのは慶応2年(1866年)6月13日。開港以来、米価の異常な高騰が起こり、林業を主な生業とし米などの食料を飯能から買い入れて生活していた上名栗村の人々は困窮。

  そうした中、檀信徒頭取で大工の島田紋次郎、桶職人の新井豊五郎の2人を中心に上名栗村の農民たちが立ち上がり、近隣の窮民に呼びかけて一斉蜂起した。

一揆勢は米の値下げ、施金・施米、質地・質品の返還などを求め、従わない場合は打ち壊しを行い、飯能、入間、所沢へと押し寄せ、その波は鎮圧までの7日間のうちに関東一円に広がり、約200か村、十数万人が参加するまでに発展した。

 鎮圧後、首謀者の捜索が始まり、島田紋次郎、新井豊五郎は首謀者として捕らえられ、厳しい詮議を受けた。村では2人の赦免嘆願運動が展開されたが、紋次郎は10月に42歳、豊五郎は11月に44歳でいずれも牢死した。

 村人たちが米価の高騰に苦しむ人々をいかに救うかを協議し、一揆の決断を下した拠点となったのが、創建500年の古刹・正覚寺。

 石井住職は、犠牲者の冥福を祈り、当時の人々の暮らしを振り返ることを目的に昨年、今年と2年にわたり武州一揆に関する会を開催。昨年は一揆の中心人物となった紋次郎と豊五郎の墓前を訪ねた。

 会には近隣をはじめ遠方からも参加者が訪れ、大久保勝市長も出席。本堂ではじめに慰霊法要として般若心経を唱えた後、石井住職が「正覚寺と武州世直し一揆」、市文化財保護審議委員の島田稔さんが「名栗の歴史と武州世直し一揆」と題して講話、昼食には芋がゆや麩(ふ)のカツなど肉や魚を使わない精進料理を囲み、午後は「蘇る歌声喫茶」として「松原ふるさとバンド」を招き、懐かしい歌を通して参加者同士が交流を深めた。

 石井住職は「今は飽食の時代だが、世界的には人口が増え食料危機の問題も叫ばれている。サミットでも食品廃棄物の削減が議論された。150年前に起きた武州一揆も食料危機が大きな引き金となった。こうした歴史に学び、これからは世界的な視野で考えていかなければならない。“一汁一菜”など昔の人々の暮らしに学び、私たちの生活を見直していく必要があるのでは」と話している。