社殿改修で一新 創建500年祝う 諏訪八幡神社

創建500年を祝い鏡開きを行う関係者

 今年で創建500年を迎えた飯能市飯能の諏訪八幡神社で社殿の改修工事が完了し、3日、神社を管理運営する一丁目・二丁目・三丁目・河原町・宮本町の関係者や住民らが多数参列し記念式典が執り行われた。

 改修工事では建物の耐震や防火を中心に老朽化した部分の修復を行うとともに、色鮮やかな朱塗りを基調に外観を一新した。

 大久保勝市長ら来賓からは「飯能河原、天覧山に囲まれた観光の核となる場所に建つ由緒ある神社として、益々の発展を願いたい」などと祝福の言葉が贈られ、境内では伝統の獅子舞や5か町による囃子の奉納が行われた。

 関係者によると、同神社は戦国時代の永正13年(1516年)、当時この地方を支配していた武将・中山家勝が平重清(畠山氏)の協力を得て、信州の諏訪明神を現在の飯能第一小学校前にあった大泉寺の境内に勧請した。

 その後、天正12年(1584年)に家勝の長男・家範が八王子城への出陣を前に戦勝と子孫繁栄を祈願し、八幡大菩薩を合祀して現在地に社殿を築き、社名を諏訪八幡神社とした。

 家範は八王子城で戦死したが、その奮戦ぶりが徳川家康に認められ、家範の二児が徳川家に召し抱えられ、長男・照守は後に2500石の御旗奉行に昇進、次男・信吉は御三家水戸藩の附家老に出世し徳川光圀を養育し水戸藩の基礎を固め2万5000石の領主となった。

 中山家の活躍により、同神社は「おすわさま」と呼ばれ地域住民の信仰を集め、江戸時代には飯能村と久下村の鎮守として崇敬、安永5年(1776年)には大火で全焼したが、氏子によって再建された。

 明治15年には町内会が設立し、一丁目、二丁目、三丁目、河原町、宮本町の5か町が神社を守り祭祀を執り行うことになり、明治20年に境内を西に拡張し本殿を現在地に移し、社殿を造営。

 明治40年には社務所を新築、大正末から昭和初期にかけ神楽殿の新築、戦後は境内の恵比寿神社の再建や社務所の建替えなどを行った。

 また、江戸時代から氏子が奉納した獅子舞は240年の歴史があり、かつては9月の例祭に5か町を巡り、現在は11月の飯能まつりに合わせて「宮巡り」「花吸い」「棹掛かり」を披露している。

 明治20年に建てられた社殿の改修にあたっては、創建500年の記念事業として実施したいと氏子関係者が検討を重ね、平成25年の準備会から始まり、事業委員会を立ち上げ、5か町から寄付を募り、社殿、神楽殿の改修、記念碑建立を実施した。

 社殿は耐震・防火の向上を重視し拝殿、本殿、渡り廊下の床など老朽化した部分を改修するとともに、柱などは生命の躍動を表し厄災を祓う色とされる朱色を用い、外壁は漆喰の白、また、格子窓を取り付けるなど外観を一新した。

 式典には松本富美男宮司、清水澄一総代長、顧問の加藤義雄さん、新井景三さん、山下正夫さん、山川荘太朗さんをはじめ、5か町の関係者や住民が多数出席。

 来賓として大久保勝市長、砂長恒夫市議会議長、内沼博史県議、矢島巌商工会議所会頭、澤田清志教育長、柏木正之観光協会長、石田宣雄氏子総代会飯能分会会長らを招き、主催者挨拶、感謝状贈呈、来賓や宮司の挨拶に続いて鏡開きが行われ、獅子舞、5か町の底抜け屋台での囃子、神楽殿での御神楽が奉納された。

 清水総代長は「改修内容の検討から始まり、3年以上の歳月をかけて事業が無事に完了した。5か町の皆様に浄財の寄進をお願いしたところ、予想を上回る多額の寄付を頂戴し心から感謝申し上げたい。建物は耐震や防火を重視するとともに、色鮮やかな朱塗りの社殿が完成した。地域の拠り所として次の500年へと続くよう、5か町で大切にし後世へ伝えて参りたい」と話している。