今年は八高線転覆事故の70回忌になる。

 昭和22年(1947)2月25日午前7時50分、八高線の東飯能~高麗川間の下り列車が、高麗川駅手前の鹿山峠のカーブで、高さ5メートルの築堤の下に、3両目と4両目の客車が脱線転落し、死者180人、負傷者495人の大惨事が起きた。

 20度の下り勾配で速度制御を失い過速したのだ。前の2両はそのまま高麗川駅に着いた。機関士は、ブレーキハンドル操作時の減圧排気音が全くなかったと証言している。

 戦後の食糧難時代、食糧の買い出し客で超満員の過重があったことも一因であろうと言われている。また、老朽木造客車の粉砕大破が犠牲者をより多くしたのだった。

 その日の午前、私は小学校の5年生で教室にいた。受け持ちの赤田喜美子先生が休みで自習だった。隣の教室の先生が入ってきて、「岡野(私の旧姓)さん、すぐ帰りなさい…」と言った。そのあとの言葉は覚えいない。

 家の隣のヒデちゃんと言う、私より少し年上の男の子が、自転車の荷台に私を乗せ、砂利道の鹿山峠をサドルから腰を上げ、息せき切って登っていたのははっきり覚えている。

 着いたところは、高麗川の農家らしい家の庭だった。縁側に布団を敷いて寝かされ、呻き声をあげている父がいた。

 父は一番死傷者が多かった4両目に乗っていた。頭は何でもなくて、腹部が列車の下敷きになり、肝臓などが破裂したと、のちに聞いた。

 今の飯能高校、当時飯能高等女学校の教員をしていた父は、浦和第一高女へ出張だった。前日も同じところへ行ったのだが、私が運動靴(飯能に売っていなかった)がほしいと頼んだので、池袋回りで行ったが、あまりにも電車が混むので、事故の日は高麗川経由にしたのだった。25日に靴を頼めば良かったと思った。

 翌26日もその農家にいた。今度は奥の部屋に移されていた。そこに入るよう誰かに言われ、私は父の横に座った。

 父は「お継母(かあさん)の言うことを良く聞いて…」と言ったあとは分からなかった。

 縁側に出ると、誰かが私に白いおにぎりを持たせてくれた。当時、白米など食べたことも、見たこともなかった。とびついて食べる筈なのに、口へ入れたら砂を咬むようとはあのことで、全く食べられなかった。

 その後、父は戸板に乗せられ、鉄道省の役人の車を借り、飯能の石井病院へ連れられて行った。戸板の上で「イタイ、イタイ」と叫んでいた声が、今も胸に突き刺さっている。

 鉄道省の役人が、車を使ったことを怒ったとあとで聞き、子ども心にも酷いと思った。

 2月27日に父は息を引き取った。手術をしようと麻酔をかけたところで、事切れたという。41歳だった。

 父は貧しい農家の生まれで、苦学して師範学校を卒業し、はじめは小学校の教員になり、努力して高校に変わり、今度は校長になると勉強していた途中だった。

 私の母に若くして先立たれ、私の勉強を見たりすると、後の妻に嫌みを言われ、家庭も大変だった。それでも、夏休みには借りた畑で野菜や小麦まで作った。働き者で、やさしい父だった。思い返しても父に叱られたことは一度もなかった。

 最近になり、近所のおばあさんから「あんたのお父さんは病院で死ぬ時、苦しくて立ち上がってしまったんだってね」と聞きたくもないことを聞いてしまった。

 同じことなら3日間も苦しまず、即死だったらどんなに良かったかと、今でも思う。

 私の夫となった人は、当時高麗川の実家から飯能郵便局へ通っていた。電信の係(郵便局と電話局が一緒だった)で、夜勤明けにいつもその列車で帰っていた。その時間に乗るには、10分仕事を早く切り上げなければならない。局長代理のSさんは出張でそれに乗るので「丹下君、一緒に行こう」と誘われたが、その日は10分狡するのが何故かいやで、断ったという。

 豊岡(入間)局の友人からも一緒にと電話があったが、「やめる」と言うと「じゃあ、俺も」と同調し助かった。局長代理の人は狡する訳ではないので乗り、亡くなってしまった。

 夫の母親は、息子が乗ったと思い、沢山の屍に掛けてあった筵を一枚いちまい剥いで探したと言う。

 飯能の人が沢山亡くなった。その中で受け持ちだった赤田先生。弟さんの見舞いに秩父の眼科医へ行くため乗り合わせ、4日目にやっと遺体が見つかった。やさしい先生だった。近くの糸屋の人、洋品店の人、花嫁姿の人もいたと言う。

 昭和55年2月25日、33回忌に事故現場へ慰霊碑が立てられた。赤田先生の弟さんたちが発起人となり寄付を集めた。

 私の実家へも赤田さんたちが来てくれたと言うが、継母(はは)は「うちの人はその場所で死んだのではないので、寄付はしません」と言ったとのことを、後から私の夫が聞き「私にさせてください」と申し出たが、「もう締め切ったので」と断られたのだった。

 その引け目もあり、慰霊碑を訪れなかった。それを友人に話すと、昨年暮れに車で碑のところに連れて行ってくれた。

 今は良い道になった鹿山峠を通り、線路下の狭いトンネルを抜けると、高い堤の下に傾きかけた冬の日差しを受け、ひっそりと慰霊碑は立っていた。萎れかけてはいたが、花が生けられていた。

 慰霊碑の前で父をはじめ、赤田先生、他の人々の冥福を祈った。

 そして今度は、父を寝かせてくれた人の家や、いろいろ助けてくれた地元の方々を探し、お礼を言いたいと思っている。